「ひとつのいのち」考
---宮沢賢治の「原体剣舞連」をめぐって---
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中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie



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   ◇◇◇ はじめに

 その当時盛岡高等農林学校の学生であった宮沢賢治は、大正六(一九一七)年 の八月から九月にかけて、同級生らと地質調査のために江刺郡地方を訪れ、そ の際にその地方のさまざまな剣舞を目にすることになる。子供たちによって舞 われるその地方の剣舞は、賢治にある強い印象を与えたようである。その印象 は直ちに短歌に詠まれ、また後には物語に、詩に、そして歌曲に取り入れられ てゆくことになる。直ちに詠まれたと思われる短歌は、例えば次のものである (大正六年九月三日、保阪嘉内宛葉書)(1)。

うす月にかゞやきいでし踊り子の異形のすがた見れば泣かゆも。
剣まひの紅(あか)ひたゝれはきらめきてうす月しめる地にひるがへる。
月更けて井手に入りたる剣まひの異形のすがたこゝろみだるゝ。
うす月の天をも仰ぎ太鼓うつ井手の剣まひわれ見て泣かゆ。

 彼は、思わず泣いてしまうほどの感銘を、この剣舞から受けたのだ。そして、 これらの歌から判断すると、彼が感銘を受けたのは、まず何よりも、踊り子た ちの「異形のすがた」であったようである。そして「紅ひたゝれ」が「地にひ るがへる」様も、うす月の差す時刻や、太鼓の音などの環境的な状況とともに 、彼には印象の深いものであったようである。さらにわれわれは、ここで、こ の剣舞が、「井手の剣まい」と呼ばれるものであったことにも、少し注意して おこう。「井手」とは、江刺地方のひとつの村落であり、今日普通には「伊手 」と表記される土地のことである。今日その土地では、「寺地剣舞」と呼ばれ る剣舞が踊られている(1)。そしてこのことは、大正六年の当時も同じであっ たと推察される。

 詩集『春と修羅』に収められることになる、大正十一(一九二二)年八月三 一日作の詩「原体剣舞連(はらたいけんばひれん)」も、大正六年のその時の インパクトを源泉にした作品だと考えられる。そこでは、上に挙げた「井手の 剣舞」の印象深い情景のさまざまが、取り入れられている。この詩においては 、単に江刺郡「原体村の剣舞」に加わる人々が誉め、称え、歌われているばか りではないのである。詩のタイトルの「原体剣舞」は、むしろ江刺地方のさま ざまな剣舞の〈エッセンスとして〉、取り上げられ、名差されているようにみ えるのである。実際この江刺地方の剣舞は、北上地方の鬼剣舞とは異なって、 すべてが十二歳位までの子供たちによって舞われており、賢治がこの詩におい て行っている主要なことの一つは、剣舞を舞う〈子供たちを〉、詩中の言葉で 言って、「気圏の戦士」として捉え、そして彼らを自分の「朋(とも)たち」 として位置づけることである、と考えられるからである。そして、このような 同志的な共感の姿勢の、萌芽のようなものは、上掲の短歌の中にも、読み取ら れるのである(なぜ〈泣かれる〉のか)。

 ところで剣舞を舞う子供たちが気圏の〈戦士〉として捉えられる時、そこには 当然或る〈戦い〉が存在している、と考えられねばならない。それは一体どん な戦いなのだろうか? それは確かに、容易には掴みがたい戦いであろう。気 圏の戦士たちは一体何と戦うのだろうか? ------その命名からして、おそらく こう言うことはできるだろう。彼らは、〈気圏を汚す者〉たちと戦う、と。そ して詩中では、「悪路王」の名が、彼らの戦いの相手として、挙げられている 、と考えられる。------ここにおいて、この名とともに、この詩は東北地方の 精神史の非常に重たい問題と関ることになるのではないだろうか。賢治がここ で「悪路王」を登場させる時、彼には確かに、或る安易な依りかかりがあった であろう。通説的な「悪路王」像への。しかし彼の詩作の力は、悪路王につい ての通俗的な問題系をすっと乗り越えていってしまう。そしてわたしたちを、 生きることの本質的な問題、つまり生殺の問題の場に、引き連れてゆくのであ る。彼の、「ひとつのいのち」という思想は、この問題に対して、賢治がわた したちに、〈解決〉として示してくれた思想である。それは何からの解決だろ うか? ------〈気圏を汚す病〉からの、つまりルサンチマンからの、と、われ われは答えてよいのではないだろうか?

 そしてまたもう一つの問題は、賢治がここで示した解決が、本当に充分な答え になっているのか、ということである。これは慎重に検討されねばならないだ ろう。われわれはこれらの問題について、以下、若干の考察を試みることにし たい。

   ◇◇◆ 詩「原体剣舞連」のテクスト

 すべての考察に先立って、宮沢賢治の詩「原体剣舞連」を、宮沢家本による最 終推敲の形で、全文引用紹介しておきたい。以下がそれである。

原体剣舞連(はらたいけんばひれん)
            (mental sketch modified)

   dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
こよひ異装(いさう)のげん月のした
(り)との黒尾を頭巾(づきん)にかざり
片刃(かたは)の太刀をひらめかす
原体(はらたい)村の舞手(をどりこ)たちよ
若やかに波だつむねを
アルペン農の辛酸(しんさん)に投げ
ふくよかにかゞやく頬を
高原の風とひかりにさゝげ
菩提樹皮(まだかは)と縄とをまとふ
気圏の戦士わが朋(とも)たちよ
青らみわたる景頁(かうき)をふかみ
楢と椈(ぶな)とのうれひをあつめ
蛇紋山地(じゃもんさんち)に篝(かがり)をかかげ
ひのきの髪をうちゆすり
まるめろの匂のそらに
あたらしい星雲を燃せ
  dah-dah-sko-dah-dah
肌膚(きふ)を腐植と土にけづらせ
筋骨はつめたい炭酸に粗(あら)
月月(つきづき)に日光と風とを焦慮し
敬虔に年を累(かさ)ねた師父(しふ)たちよ
こよひ銀河と森とのまつり
(じゅん)平原の天末線(てんまつせん)
さらにも強く鼓を鳴らし
うす月の雲をどよませ
  Ho! Ho! Ho!
     むかし達谷(たつた)の悪路王(あくろわう)
     まつくらくらの二里の洞(ほら)
     わたるは夢と黒夜神(こくやじん)
     首は刻まれ漬けられ
アンドロメダもかゞりにゆすれ
     青い仮面(めん)このこけおどし
     太刀を浴びてはいつぷかぷ
     夜風の底の蜘蛛(くも)をどり
     胃袋はいてぎつたぎた
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
さらにも強く刃(やいば)を合(あ)はせ
四方(しはう)の夜(よる)の鬼神(きじん)をまねき
樹液(じゆえき)もふるふこの夜(よ)さひとよ
赤ひたたれを地にひるがへし
雹雲(ひよううん)と風とをまつれ
  dah-dah-dah-dahh
夜風(よかぜ)とどろきひのきはみだれ
月は射(い)そそぐ銀の矢並
打つも果(は)てるも火花のいのち
太刀の軋(きし)りの消えぬひま
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
太刀は稲妻萱穂(いなづまかやぼ)のさやぎ
獅子の星座(せいざ)に散る火の雨の
消えてあとない天(あま)のがはら
打つも果てるもひとつのいのち
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
               (一九二二、八、三一)
   ◇◆◇ 詩「原体剣舞連」と原体剣舞

 「原体剣舞連」と題されたこの詩は、確かに、当時江刺郡の原体村で舞われて いた剣舞を〈基準〉にして書かれている、と考えられるであろう。「異装」「 鶏の黒尾を頭巾にかざり」「片刃の太刀をひらめかす」「ひのきの髪をうちゆ すり」「青い仮面このこけおどし」「赤ひたたれを地にひるがへし」などの叙 述は、原体剣舞を踊る子供たちの姿を描いたもの考えて何の矛盾も生じないか らだ。頭巾にかざられる「鶏の黒尾」は、原体剣舞で用いられ、普通「鶏羽菜 (ザイ、「采」とも記す)」と呼ばれているものであろうし、「赤ひたたれ」 と言われたものは、普通「座衣・尾口」と呼ばれているもののことである、と 考えられるのである(2)。尤も、これらの道具立ては、ここに描かれている限 りにおいて、伊手(井出)の寺地剣舞と特に変わるところはなく、この詩の前 半部の、弦月の下に異装で踊る子供たちへの共感的な感銘は、むしろ、先述し たように、賢治が「井出の剣舞」、乃至は「上伊手剣舞」と呼ぶ「剣舞」から 受けた印象が基礎になっている、と考えられるのである(3)。われわれが「こ の詩は原体剣舞を基準にして書かれている」、と言うとき、われわれはそれを 、とりわけこの詩の後半部との関りにおいて言っているのである。この詩が後 半「Ho! Ho! Ho!」から、悪路王のテーマを導入してくるとき、そしてとりわ け「青い仮面このこけおどし」について語るとき、われわれはこれを、賢治独 自の、原体剣舞についての解釈、と考えるのである。と言うのも、原体剣舞を 見た賢治の印象は、それを記した彼の短歌からみて、青仮面の人物に集中され ているからである。『アザリア』第三号に掲載された「原体剣舞連」というタ イトルの歌は、次ような三首である(「歌稿A」の歌はこれらの内の初めの二 首の「異稿」とみられるものである)。

やるせなきたそがれ鳥に似たらずや青仮面(メン)つけし踊り手の歌。
若者の青仮面の下につくといき深み行く夜を出でし弦月。
青仮面の若者よあゝすなほにも何を求めてなれは踊るや。

 賢治はここで、青仮面(実際には「黒面」と思われる)をつけた人物(ペルソ ナ)のもつべき、やるせなく、苦しい内面に入り込み、そこで仮面踊りの舞そ のものに、謎を掛けられたようである(4)。つまり、この仮面のペルソナは、 何を表しているのか、何を意味しているのか、という謎に。詩「原体剣 舞連」、とりわけその後半部は、この謎に対して賢治が試みた、一つの解釈の 試みだ、と考えられねばならない。そして賢治は、この仮面の人物のペルソナ を、この東北の地に伝わる伝説の、悪路王だ、と解釈したのである。平 泉の西、達谷の窟に、城塞を構えて立て籠り、征夷の将軍・坂上田村麻呂ら に逆らい、そして滅ぼされた賊主、と伝えられる、あの悪路王、 として(5)。

     むかし達谷(たつた)の悪路王(あくろわう)
     まつくらくらの二里の洞(ほら)
     わたるは夢と黒夜神(こくやじん)
     首は刻まれ漬けられ
アンドロメダもかゞりにゆすれ
     青い仮面(めん)このこけおどし
     太刀を浴びてはいつぷかぷ
     夜風の底の蜘蛛(くも)をどり
     胃袋はいてぎつたぎた

 賢治はこの剣舞の一シーンを、悪路王に擬される「青仮面」の人物が、太刀を 浴びて、溺れかかった者のように、蜘蛛のような踊りをおどっているところ、 と捉えたのだ。このとき悪路王は、「黒夜神」とひそかな盟約を結ぶ悪虐人で あり、しかもその強さ、恐ろしさは「こけおどし」で、名将軍との戦いになれ ば、他愛もなく殺られてしまうのである。

   ◇◆◆ 原体剣舞の意味すること

 しかし、この賢治による謎解きや解釈は、事実的な意味において、間違いであ ろう。剣舞そのものに即して考察するならば、原体剣舞や寺地剣舞には、悪路 王の影はほとんど差していない。

 まず、原体剣舞の庭元に伝わる家伝書によると、「仏説にある釈迦の高弟、目 蓮尊者の母が死後餓鬼道におちいり、燃えさかる業火にさいなまれて地獄変に 苦しむ様を嘆き悲しみ、釈迦の教えに従って先祖を供養して踊ったのが『うら 盆』であり、剣舞の始めであるとされる。日本では天慶元年、密教の祖といわ れる空也上人が辻説法の際、四十八人の弟子に夜叉形の面をつけ、太刀・扇を 持って笛・太鼓・鐘・鉦・ササラで五音の曲を調べ、六字の名号を唱えて踊っ たのが始め」だとされている(6)。ここではこの剣舞が、先祖供養の趣旨のも のであること、目蓮尊者の願いに発していること、そして空也上人の先例にち なむ踊りだということ、が重要だと思われる。

 また別の資料によれば、この稚児剣舞は、「奥州平泉初代の藤原清衡が、豊田 館(江刺市岩谷堂下苗代沢字餅田)に在ったとき、藤原家衡の襲撃を受け、一 族郎党皆殺しの目にあい、清衡のみが逃れ」た。後に清衡はその時に殺された 者たちの供養のために、「剣舞を演じさせたが、特に亡き妻と子の怨霊供養を 厚くするために女子と稚児の演ずる剣舞となった」ということである(7)。こ の伝承は、江刺の土地への密着性があること、及びこれが十二才くらいまでの 子供の舞手たちによって舞われる理由を説明していること、などによって、こ の剣舞の趣旨をよく語っているものだと、考えられる。

 私が見聞したところを若干の資料と整合させて記せば、実際の原体剣舞の舞手 は、四つのカテゴリーに分けられる。夜叉の面を顔にはつけず腰の背につけ、 頭には鶏羽の采を縛り付け、腰に白帯を結び、扇・面棒(或は太刀)をもって 踊る、〈亡者〉とみなされる八人の剣士の一群。〈空也上人〉に擬される聖者 の仮の姿とされる、「信坊子(スボッコ)」と呼ばれる、黒面を付け杖と軍配 をもって踊る一人。彼だけは腰に青空色の帯を締める。そして採り物からとい うより、位置からして二類に分けられる、三人の少女たち。一方の類は〈目蓮 尊者〉とみなされる、鉦をもつ一人で、他方は〈信者〉とみなされる、鉦をも つ一人とささらをもつ一人。この二人は並んで踊る。少女は三人とも長衣に脚 絆・草履に編笠をかぶっている。そして舞の経過は、私の見るところでは、荒 くれ踊っている亡者たちが、信者の鉦とささらの音、これは経典の転読の音と みなされるだろう、によって徐々に慰められ、鎮められ、ついには戦いへの意 志を放棄して、太刀(面棒)を捨てる、という趣旨のものである(8)。亡者は 、踊りにおいてみずからの力と意志を充分に示た上で、はじめて仏教の教えに よって慰められ、そして空也上人の聖なる力の前に、みずからの怨念を捨てる 、というストーリーの踊りであると考えられる。この場合怨念をもつ「亡霊」 たちは、自らの姿を表すはずの〈亡者〉たちに、自らの様々な念を投入し、彼 らと同一化できなければならず、また、実際、充分強く、正しく舞われる場合 には、それがなされ、剣舞の舞が四方の「亡霊」たちを呼び寄せている、と感 じられるであろう。賢治はその様子を、端的にこう語っている。

さらにも強く刃(やいば)を合(あ)はせ
四方(しはう)の夜(よる)の鬼神(きじん)をまねき

「鬼神」とは「亡霊」の別の名である。

 そしてこの原体剣舞の場合、この怨念を慰められる亡霊とは、藤原清衡の妻子 、一族郎党の者たちであり、そういう者たちとしての、この村、この地方の、 先祖たちであろう。

   ◆◇◇ 「上伊手剣舞」

 このように賢治は、原体剣舞の舞手たちの役を、大きく読み誤りながらも、剣 舞による供養の、非常に重要な、本質的なところは、充分に、いや充分以上に 、読み取っていた、と言うことが出来るであろう。本質的なところ、とは、戦 に滅びた亡霊たちが自らの依りつきどころ、を見出す、ということ、それを舞 手の舞において見出す、ということである。この〈依りつき〉があってはじめ て、恨みを残す霊たち(「四方の夜の鬼神」たち)の、慰撫や鎮魂が可能にな るであろう。賢治はそのような、真に〈招霊力〉のある剣舞の舞を見たのであ ろうし、そしてその〈招霊〉の働きを、「原体剣舞連」の詩において定着させ たのである。

 ところで、賢治のこの剣舞に対する最大の読み誤りは、黒面をつけた〈空也上 人〉を〈悪路王〉と読み違えたことである。そして、この黒面の空也上人の姿 は実におどろおどろしく、実際、亡者たちの首領といった趣を持っているので ある。この剣舞で空也上人は亡者たちの中にあり、そのあり方をとおして亡者 たちを導いている。ここには確かに、黒面の少年を、亡者となった戦士たちの 首領としての悪路王、とする解釈を、誘う要素があるであろう。

 しかし、ここには更にもう一つのファクターがひそんでいるかもしれない。そ れは昭和五十五年前後の江刺市の調査で、一部すでに廃れたものも含めて、確 認された十四の剣舞の中に、ただ一つ、悪路王との関係を、剣舞の起源として 語り継いでいる剣舞がある、ということである。それは熊野田剣舞である。そ の由来についての説明を、『江刺の芸能』からそのまま引用してみよう。「剣 舞の起原は大同三年(八〇八)と伝えられ、桓武天皇延暦年間に、坂上田村麻 呂が勅命を奉じ、霧山達谷に住む大武丸並に高丸の悪鬼討伐をしたが、其の際 、国土安穏万民全福の祈願を羽黒山峰中権大僧都法印善行印忠度に命じ、僧は 命を畏み、同年十月より鬼渡大明神の御堂に篭り、一千日の行に入る、而して 七百七十七日目の夜、不思議なる音と光の中に老、中、若、三人の客僧が現わ れ、一刻にして消え失せた、翌夜より五十日間、毎夜現われて悪魔退散菩提大 成のための大念仏剣舞を御示し給われた、と伝えられている。」ここには幾つ かの伝承が複合しているが、「達谷に住む大武丸並に高丸の悪鬼」とは、『吾 妻鏡』が「賊主悪路王ならびに赤頭が岩屋に塞を構える」と言っていたことの 、人物名だけの変更である。われわれは「大武丸」を、もともと固有名ではな かったと考えられる「悪路王」の、一人として伝承された人物、と考えること が出来るであろう(9)。そしてこの縁起において注目すべきことは、それが剣 舞を、〈悪路王〉討伐のための、〈悪魔退散の舞〉として意味付けていること である。これは〈気圏の戦士〉たちが悪路王をやっつける、という詩「原体剣 舞連」の筋立てと非常によく一致している。宮沢賢治は、このような縁起説を 、江刺郡地方の調査旅行の間に、どこかで見聞したのではないだろう か?

 これは未だ突き止められていない問題だが、賢治の言う「上伊手剣舞」という ものは実在していたのだろうか? 実在していたとすればそれはどういう性格 の剣舞で、どういう消長の経過を辿ったものなのだろうか? それは、もしか して、熊野田剣舞と似た性格のもので、同じく〈悪路王討伐のための剣舞〉と いう性格をもった剣舞だったのだろうか? そして、ひょっとしたら、熊野田 剣舞が明治十年七月に伝授を受けた、と言われる、伝承元の「江刺郡伊手村漆 立屋敷、庭元」(10)というのが「上伊手剣舞」と呼ばれるものであって、それ が大正六年に賢治が見たものであったのだろうか? ------これらは私が未だ突 き止めていない問題であり、ここでその帰趨を定かに言うことはできない。し かし、賢治が江刺を旅した当時でも、熊野田剣舞という、剣舞を悪路王討伐の ための舞として意味付けている剣舞が存在していたのであり、そうした意味付 けを賢治がどこかで耳にし、それを剣舞一般の意味と考えた、ということは充 分ありうることだと思われる。賢治は、そうした背景の下に、原体剣舞をも、 悪路王討伐のための舞と理解したのではないだろうか?

 そしてまた、賢治の言う「上伊手剣舞」とは、本当は何だったのだろう か?

   ◆◇◆ 「ひとつのいのち」

 われわれはこのような問いを、当面、問いのまま置いておいて、詩「原体剣舞 連」が語っている最も深い思想の検討に進まなければならない。

 この詩において最後に語られている願望は「雹雲と風とをまつれ」、である。 それは先に引用した「鬼神をまねき」につづいて、次のような3行として語 られる。

樹液(じゆえき)もふるふこの夜(よ)さひとよ
赤ひたたれを地にひるがへし
雹雲(ひよううん)と風とをまつれ

 鬼神たちがやってきている。おののくべき、きびしい夜である。樹液すらふ るえている。そこを一夜中、舞を舞い続け、鬼神たちを楽しませる。赤いひた たれのひるがえり。赤をひるがえして舞い続けることが、雹雲と風とをまつる ことになるように、そのように舞い続けること。赤い色が翻る。地には赤を翻 させる舞が続き、その赤の翻りが、天上の雹雲と、風のリズムに呼応する。地 と天の間、地の赤と天の黒雲との間に一つのリズムの呼応が生じるとき、鬼神 もまた怨恨の念を失い、亡霊たちの思念は、ことごとく、風のごとくに消失す る。そうしたリズムを生み出すまつり、舞い、としての〈気圏の戦士〉たちの 、鎮魂、慰霊の剣舞踊り。四方から呼び寄せられた亡霊、鬼神たちは、この天 地を結ぶリズムの動きの中に、慰められ、充足し、そして清らかに消え去るの だ、と賢治は語ろうとしているのではないだろうか。怨霊を鎮めうる〈験(げ ん)〉の力とは、こうして天地を遍くわたらしめるひとつのリズムを打ち立て る力に尽きるのだ、と賢治は言おうとしているのではないだろうか。恐らくこ ういう解釈だけが、「雹雲と風とをまつれ」という願望を、究極的な、充分な 願望として、打ち出すことの意味を説明するであろう。天地を呼応させるリズ ムの生産装置としての「原体剣舞」、こういうものを賢治は、〈気圏の戦士〉 としての舞手たちの舞いに読み取り、また期待したのであろう。

 そうであるとすれば、「打つも果てるもひとつのいのち」という、詩行の末尾 に語られる思想は、生命というものは根源においては一つであるが、それが現 実の生においては必然的に異なった別々の形を取り、異なった立場を取り、あ い対立せざるをえないのだ、という思想、根源の一性にこの世の葛藤や対立か らの救済を見出そうとする思想、とは、はっきりと異なった思想を語っている ことになるであろう。つまり賢治においては、より実践的、実行的なことが問 題なのであり、現実に月が銀の矢並みを射そそぐリズムを見出し、生み出すこ とが重要なのであり、獅子座に火の雨を散らせるリズムを見出し、生み出すこ とが重要なのである。しかも、多くのいかさま師たちがやるように、そう見せ かけるのではなく、本当にそれを見出し、生み出すことが問題なのである。従 って、「打つも果てるもひとつのいのち」という思想は、単に前景であって、 本当の思想は、或るひとつの〈宇宙のリズム〉を把握することの内にあるので ある。そして、この捉えられた或るひとつの〈宇宙のリズム〉の中で、本質的 に多数であるいのちたちが、同じ時の流れを経験するのである。それが喜びで あり、歓喜であり、そして救済である、と賢治はわたしたちに語っているので ある。賢治が語っていることは、イデオロギーでもなく、またいかさまでもな い。

そして、ここにおいて、つまり生の本質的な多数性の、現実に把握され、生み 出され、享受される喜びにもとづく、承認と肯定において、宮沢賢治の思想は 、ニーチェの思想と非常によく似た場所にあるのである。ニーチェもまた、生 の本質的な多数性の、この承認と肯定によって、意志は根源において一つであ る、というまやかし的な思想を語る哲学者と対決したのである(11)。

 ニーチェの思想との比較は、また後の機会にゆだねたいが、「ひとつのいのち 」という賢治の思想は、私の苦において誰かの快を肯定し、また私の快におい て誰かの苦を肯定する、相互性の交流、乃至は立場の相互的な交換、の〈場〉 を明示するが、それは決して、根源における自他の差異の解消、他者と自己の 根源における消滅、のようなことを語ろうとしているわけではない。これにつ いて例えば、「なめとこ山の熊」や「注文の多い料理店」などの作品において 追究される、立場の相互的交換の問題を思い浮かべていただきたい。前作にお いては相互的交流は美しく成立し、後者においては成立しないのであるが、こ のいずれの場合にも、根源的な一への自他の解消が問題なのではなく、常に多 数的である生の、交流をもつ再生産が問題なのである。そしてこの交流を可能 にする〈場〉がどこにあるかが問題であろう。そして私は、その最も厳密な思 索において、賢治は、その〈場〉を、天と地を結ぶリズムが生成するところに 認めていた、と考えるのである。原体剣舞連は、宮沢賢治によって、相互的交 流の〈場〉を形成する〈宇宙のリズム〉の生成装置として、把握され、そして 詩として定着された、と私は考えるのである。


   注
(1)この他に、この時からほとんど時を隔てずに詠まれたと考えられる「剣舞 」の短歌には、「校本全集」の歌稿A中の「上伊手剣舞連」と題された四首、 「原体剣舞連」と題された二首、そして同年十月十七日発行の『アザリア 第 三号』に掲載された、「原体剣舞連」と題される三首がある。
(2)原体剣舞の用具の名称については、『江刺の芸能』、江刺市教育委員会、 昭和五六年、二二四---二二七頁に基づく。また、定村忠士『悪路王伝説』、日 本エディタースクール出版部、一九九二年、第一章の考察も参照された い。
(3)この「上伊手剣舞」という言い方は、注(1)で挙げた、「歌稿A」における 表現である。前掲の『江刺の芸能』(二一五---二七五頁)に拠る限り、「上伊 手剣舞」という呼び名の剣舞は今日現存せず、また賢治がそれを見たと想定さ れる時期においても、存在していたとは考え難いようである。
(4)賢治作品における、青の色彩イメージから黒のそれにかけての連続的関係 、そしてとりわけ黒イメージが「高揚」を示したり、「怒りの感情」を含んだ ものになってゆく、ということに関しては、板谷栄城氏の目覚ましい指摘を参 照されたい(『宮沢賢治の見た心象』、NHKブックス、一九九〇、二十一--- 二十三頁)。これらの短歌や詩においても、賢治は、黒イメージが作品表現中 に現れてしまうことを、無意識に避けているようにみえる。
(5)『吾妻鏡 第一』、吉川弘文館、平成元年、文治五(一一八九)年九月二 十八日の条、三五八---三五九頁、参照。この『吾妻鏡』の記述が、「悪路王 」の名の、文献上の初出である。
(6)『江刺の芸能』前掲書、二二四頁。
(7)『文化庁北海道・東北ブロック郷土芸能大会資料』平成二年。この記述は 、原体剣舞の伝承元である増沢剣舞の縁起に基づくものと考えられる。
(8)原体剣舞には「安剣舞」「卯平剣舞」「太刀入剣舞」「参入剣舞」の四つ の演目があるが、私のこれらの記述と印象は、私が見聞した、一九九三年八月 十五日に岩谷堂前で舞われた「卯平剣舞」についてのものである。実際、賢治 がどの演目を念頭に置いているのか、ということは突き止められるべきことの 一つである。私はそれを、「太刀入剣舞」ではないかと考えているが、近々の うちにそれを明らかにするつもりである。尚、参考にした資料の一つ(『ふる さと文化伝承の集い ---東北・北海道青少年郷土文化の交流---』パンフレッ ト、江刺市教育委員会保存、発行年未詳)は、賢治の念頭にある演目を「卯平 剣舞」と想定している。また、踊り手は慶応元年に原体村に伝授された時以来 、少年と少女が共に加わって踊り、とりわけ〈目蓮尊者〉の役は、必ず少女の ものとされていたが、賢治がそれを見たと思われる大正期には、原体剣舞の舞 手はすべて少年であったそうである((7)の資料による)。
(9)喜田貞吉氏は「悪路とは蝦夷地の地名である」という説を提出している。 それは「悪路王」を、特定の人物名ではなく、平泉以北の北上川流域地方と想 定される、「アクロ」乃至は「アクリ(阿久利)」地方の首長、という一般名 詞として捉える見方を提供する。この説に従って考えれば、伝承の中で、様々 な固有名が「悪路王の位置」に入ってくる、ということが、容易に理解される (『喜田貞吉著作集9』、平凡社、一〇〇---一〇三頁参照)。私は「悪路」 を、[われらの/彼らの/汝らの]を意味する、アイヌ語の[Akoro]と同様 の語とは考えられないか、という可能性を考えている(ジョン・バチラー『ア イヌ・英・和辞典第四版による)。「悪路王」についての『吾妻鏡』の記述が 、源頼朝が、藤原泰衡を滅ぼして、鎌倉に帰還する途中に、引き連れていた蝦 夷(えみし)の囚人たちに尋ねた答えとして記されている、ということから、 囚人たちが、達谷に滅ぼされた「王」を、「われらの王」、或は「彼らの王」 と言った可能性がないか、と考えているのである。この点に関しては更に考察 を進めたいが、いずれにせよ、東北の蝦夷たちにとっては、一般に、悪路王は 固有名とは考えられていなかった、と言えそうである。
(10)『江刺の芸能』前掲書、二三九頁。
(11)ニーチェのショーペンハウエルに対する対決。F. Nietzsche, Die Fröhliche Wissenschaft, 99(『歓ばしい知識』、九九)を参照。
   [補説]

 筆者の一九九五年八月の調査によって、江刺地方の剣舞について新たに判明し たことが幾つかあり、一部本稿の推測の修正を要するので、それをここで手短 にまとめて記しておきたい。
1.伊手地方は、伝統的に上伊手、下伊手、北伊手の三地区に分けられるが、 寺地剣舞の行われる寺地集落は、上伊手地区ではなく、北伊手地区にある。従 って、宮沢賢治が「上伊手剣舞」と呼んだ剣舞は、寺地剣舞とは別のものと考 えられる。
2.熊野田剣舞の伝承元である「漆立屋敷」はまさに上伊手地区にあり、そこ でも昭和三十年ころまで剣舞が踊られていた(漆立屋敷庭元夫人の談)。
3.漆立屋敷に伝承する剣舞の由来書は、ほとんど熊野田剣舞の由来書と同じ であるが、「悪路王(大武丸、高丸)」に関係する記述は漆立の由来書には記 されていない。しかし、それはやはり大同三年の由来とされており、この日付 から、この剣舞を、田村麻呂による「悪路王」討伐への祈願と関係づけた説明 が、賢治の見た当時、なされていた可能性はある。
4.漆立屋敷の剣舞が何と呼ばれていたかは、もはやはっきりとは分からない (漆立屋敷、および近在の人々の談)。しかし、それを人々が「上伊手剣舞」 と呼んでいた可能性は高いと思われる。
5.以上のことから、阿原高原から下りてきた賢治が上伊手地区で目にし、感 動した「上伊手剣舞」は、この「漆立屋敷」に伝承されていた剣舞であった可 能性は高く、また剣舞と「悪路王」とを結びつける解釈のヒントを、この剣舞 の連中から得た可能性もある、と考えられる。
6.原体剣舞の「太刀入剣舞」の演目には太刀を打ち合う所作はなく、賢治作 品に何ヶ所か出てくる「太刀を打ち合う所作」は、原体のものとは別の剣舞か ら着想を得たものであろうと推測される(漆立のものか、あるいは「兄和田剣 舞」などからか)。
7.賢治がそれを見て強い感銘を受けた「上伊手剣舞」が「漆立屋敷」伝承の 剣舞であったとして、それを追体験するには、今や、その伝承を受けた熊野田 剣舞によるしかない。目下中断されている熊野田剣舞が、再び開始される日が 訪れることを、期待したい。 以上、筆者に貴重な見学の機会をお与え下さったり、大切な情報や知識、資料 やご意見などを、懇切にお教え下さった多くの方々に、御礼申し上げま す。

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Index 《宮沢賢治》 Index




このテクストは、はじめ同じタイトルで、
『人類の創造へ −−梅原猛との交点から』
(中西進、他編、中央公論社、1995年)に
発表したものを、一部改定し、またHTML化した最新版です。
また、これは今、より読みやすい形で
中路正恒著『ニーチェから宮沢賢治へ』
(創言社、1997/2002年)
に収録されています。この本は、書店などを通じて入手可能です。
そちらもご覧いただければ幸いです。



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